統失大学院生のしょーんな日常

どこかの大学院の博士課程に長々と在籍している統合失調症の患者が毎日どのように暮らしているのかご報告します。リハビリのためにできるだけ毎日書くことを目指します。

日曜日のホットケーキ、与える人になれたら

こんばんは。

私の住んでいるところも今週末は冷え込んでいます。昨日は雪がちらつきました。でも立春も迎えたし、春はそこまで来ているはずです。

 

日曜日らしく過ごしたかったのですが、結局いつも通りに過ごしています。勉強の本は読まないという細やかな抵抗。

我が家は最近、日曜の朝はホットケーキという習慣ができていて、それはとても日曜日らしいです。母もどんどん焼くのが上手になってきていて、ぐりとぐらのケーキのような厚くて金色のホットケーキが食べられます。

日曜は祖母が家にいるので、出かけたりはせず、できるだけ一緒にテレビを見たりしています。あまりおもしろいテレビがないからしんどいけど。そういえばオリンピックはまだちらりとも見ていません。

 

購読させてもらっているブログをあれこれ読んでいると、みんなブログを工夫しているし、ちゃんと内容のあることを書かれていてすごいなあと思います。

私はただ毎日書くことだけを決まりにしていて、読んでためになったり楽しかったりすることは書けていません。もっと書くことに慣れたら、読む人のことを考えて書けるのかな。

ブログに書く内容のハードルを上げてしまったらたぶん書けなくなるので、当分はこのままその日にあったことをただ書いていくことにしようと思います。夕方にパソコンに向かうという習慣だけでも、今の私にとっては貴重なものです。

こんなブログを読んでくださる方々には、心から感謝しています。

 

読んでおもしろいことを書く、聞いておもしろいことを話す、ということは、私の遠いけど大切な目標だと今日気がつきました。

すごいことを言いたいわけじゃなくて、誰かが知りたがっていることを見つけてきたり、ちょっとでもわくわくしてもらえることを書ければ幸せです。

もし小説が書けるにしても、何か文学的価値のある純文学というよりは、誰かの気晴らしになるものが書きたいと今は感じます。

病気になって何ひとつまともに楽しめなくなった時に、おもしろがるという心の動きはとても貴重で生き生きしたものだとわかりました。

私が鬱々としていた時にそれでも心を動かしてくれたもの、難しいものなんか読めなかった時に助けになってくれた小説、そんなものに強く恩を感じています。

いつかつらい誰かのヒントになったり、気を紛らわせたりできるものを発信できたらとてもうれしいです。そのためにがんばりたい。

でもそれも、もし私に向いていれば、です。

 

高村光太郎の「少年に与ふ」という易しい詩に、こういう言葉があります。

えらい人や名高い人にならうとは決してするな。

持つて生まれたものを深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。

天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。

それが自然と此の世の役に立つ。(ll. 14-17)

自分が何を持って生まれたかをよくわかって、それを引き出し、生かすことで、自然と人のためになるのは本当だと思います。

何をもらって生まれたか深くさぐって、それを使って人に何かを与える日が来ればいいと願っています。

 

余計なことですが、私は子どもの時からずっと、「生まれなければよかった」と思って生きています。生まれないことがいちばん幸せだというのは、幼い頃からの自然な思いでした。

でももう生まれてしまっています。

生まれたことで私に世界が与えられたのなら、そんなものは全然いらないと拒否したいのですが、逆に生まれたことは世界に私が与えられたということだったとしたら。

世界を楽しむか拒否するかは私の自由かもしれませんが、生まれることが与えることだとしたら、私には持って生まれたものを使って、自分を世界に与え切る義務があると思うのです。

ちょっと薄暗いけど、そう思って今は死なないでいます。